歴史文化を次世代に
2007年から5年間、松江開府400年祭を開催します。堀尾吉晴・忠氏父子は、関ヶ原の合戦(1600年)後、徳川家康の命を受け、出雲・隠岐の太守としてこの地に赴いた。忠氏亡き後、吉晴は拠点を広瀬から松江に移し、築城に取り掛かったのが1607(慶長12)年。ここから城下町・松江の歴史は始まり、城が完成する1611年までに現在の松江の礎が築かれていった。この5年間と時を同じくし、2007年から2011年までを松江開府400年祭と位置づけました。松江開府400年祭ホームページでは、城下町・松江の歴史を調べ、随時提供していきます。今後、内容を充実させ、松江の魅力を次世代に伝えていきます。
歩み検証しあらたな飛躍へ
吉晴、忠氏父子は広瀬の月山富田城に入城したものの、戦国期には難攻不落を誇った山城も、近世では時代遅れ。政治、軍事だけでなく、経済機能と武士を住まわせる城下を必要としていました。移り変わる時代にあって、吉晴が松江を選んだ理由は「交通の便に恵まれている」「城下町を形成する平地がある」など。当時、最大の交通手段だったのは船。大橋川、中海を通じて国内諸国はもとより、海外まで見据えることができる要害の地・松江は、大きな飛躍の可能性を感じさせる地として吉晴の目に映ったことでしょう。
吉晴、忠氏父子は、松江市の南に位置する床几山に上り、城地や城下の場所を選定したと伝えられています。そして地形、広さなどから、標高28.4メートルの亀田山(別名・極楽寺山)に城を構え、城下を形成していきました。
堀尾氏の後、京極氏、松平氏と藩主は代わりましたが、松江は城下町として発展し続け、吉晴が床几山から松江の地を見て思い描いた夢の先に、今の松江の街の姿、住民の生活があります。
400年の時が流れた今も、松江城をはじめ、城を囲む堀川、武家屋敷、塩見縄手など江戸情緒を随所に残しています。松江市は、創建当時の姿を伝える松江城とともに、現存する町割りなど、城下町研究にとって全国的にも貴重な都市、といわれています。
特筆すべきは松江城。こんな逸話があります。廃藩置県に伴い、松平家から陸軍省の管轄になった松江城(当時は千鳥城と呼んだ)は、払い下げられることになり、天守閣は百八十円(米一俵が三円弱)で落札されました。これを聞いた出東村(現斐川町)の豪農勝部本衛門が、旧藩士の高城権八らとともに保存に立ち上がった。そして、熱意は通じた。櫓(やぐら)などは落札され、解体されましたが、天守閣だけは残りました。後に、松平家の末裔が城一帯を買い取り、1927(昭和2)年、松江市に寄付、現在に至ります。まさに民間による文化財保存活動のはしりです。
歴史と文化に彩られ、長い時間をかけ深い趣を蓄積してきた松江は、1951(昭和26)年、京都市、奈良市に次いで「国際文化観光都市」に指定され、大きく躍進します。
松江開府400年祭は、開府から現在までをあらためて検証するとともに、新たな飛躍を求め、次代につなげていく格好の節目。従来からの行事に各種のイベントを効果的に配置するなどし、松江市の目標でもある観光入りこみ客一千万人構想の実現も目指します。
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- 松江年表



